八転び七起き

はじめましてKRZです。

2021年6月21日

昨日は晴れたので洗濯をした。いつも通りに洗濯機に洗濯物をぶっこんで水道じゃ口をひねり、洗剤と柔軟剤をいれてスイッチオンして干し終わった洗濯ものを取り込んでいたが、背後の洗濯機からなにかガリっという変な音が出ていた。聞き覚えのない音である。洗濯機から発せられる異常音あるあるは小銭がダントツ一位。そのほかには心配する必要のない場合がほとんどでその多くはファスナーなどがたまたまあたって音が鳴るというものだった。しかし今回の音は明らかにそれらとは違っていた。その瞬間に、そろそろ洗濯機も壊れたのかもしれないなあ、と思った。この洗濯機は

2021年6月20日

アマゾンで本を買う方法には4通りある。まず1つ目は、新品の本を普通に買う方法。2つ目は古本を指定して買う方法。3つ目は電子書籍としてのKindle版で買う方法で、最後はオーディブル(朗読)版で買う方法である。前の2つは実物が送られてくるが、後の2つは電子版で、全ての本が電子ファイル化されているわけではないが、かなりの書籍が電子ファイル化されている。電子ファイルだから場所を取らない。最後のオーディブルは聴く書籍だからいちいち老眼鏡をかけて読む必要もない。ボクはそもそも文字を読むのが苦手だ。だからこのオーディブルは実に画期的である。まじで時代は変わったものだ。聴くタイプは昔から全くないわけではなかったが、あってもそのほとんどは有名な文学作品に限られていて、しかもわざわざ個人でその音声テープかCDを買うことはなく、本屋さんでも見かけることもなく図書館においてあるものを見かけるくらいだった。もとは目の不自由なかたや聴くことが好きな人のためにあったのだと思う。そういえばボクも大学生のころに図書館で朗読ボランティアをやっていたことがある。ほんの少しの期間だったので担当したのはたった一人である。それでも半年か1年くらいはやっていたように記憶している。その方は60歳くらいのおじさんで、いつも将棋の棋譜を読み上げるのがボクの朗読である。おじさんはほぼ全盲の方で、いつも杖をついていたが図書館にくることには何も支障がない様子だった。棋譜というのは数字と駒のなまえだけが延々続く。だから文学作品を読み上げるような特別な技術や漢字の知識は全く必要なかった。だから結構退屈のように思われるかもしれないが、意外に面白かった。ボクは何事にも真剣に取り組む性格なのでやると決めたことはだいたいきちんとこなすことが出来る。しかしそれでも間違いというのは起こるものだ。棋譜を読んでいてちょっとした物音でよそ見をして一つ読む列を間違えたりもしたりする。そうすると「あ、そこは読み間違いですね」と教えてくれる。それは同じ棋譜を繰り返したからではなく、きちんと34個の駒の位置が一つたがわずにあたまのなかで記録されていてボクの間違いもはっきりわかるというわけである。そのおじさんはいろいろな物事の変化を音から察知していた。ボクが酷い風邪をひいてガラガラ声のときなどは「声優になれる声ですね」と気遣ってくれた。他にもいろいろなことがあったように覚えている。ひとつの感覚が失われていることで他の感覚や脳の活動がそれを補うようになるのだということを知った。オーディブルを聴いていてそんな昔のことを思いだした。遠い昔のことなのに覚えているものだ。まるで朗読室で読み上げているのが昨日のように思い出される。さて昨夜はまた衝動的にKindle書籍を1冊買った。それをパソコンで読もうと思ってKindleアプリを開くと購入したばかりの本の横に見覚えのある本があった・・・。「あれ、これは先週古本で購入した本やね、これここに実物あるべ・・」、と気が付いた。2番目の方法で購入した古本がなぜか3番目のKindle版でも存在していたという不思議な話である。しかもAmazonからのメール履歴を確認したら確かに半年前に購入していた。そのころにはこの本のことを知らなかったはずなのになぜKindleを購入していたのだろう。世にも不思議な話である。いやまったく記憶がないだけの話だが。

2021年6月19日

雨が降りそうで降らない日もあり、晴れてたのに曇ってきてぱらっと降ったりなど。そうこうしていたらいつの間にか6月も中盤をすぎた。梅雨らしくないなあと思ってたが、知らないうちに梅雨入りしていたらしい。エレベーターに一緒に乗り合わせた職場の方が教えてくれた。「梅雨入りしたとみられるだそうです」とその人はいっていた。テレビはほとんど見ないし、今大人気のウェザーニュース動画は見ているがさやっちの面白動画抜粋くらいしか見ていないので梅雨のことは全くしらなかった。しかも例年に比べて記録的に遅い梅雨入りだとか。しかしそんな気象庁の発表があってもなくても季節はきちんと進んでいる。季節は春から夏への過渡期。だからいつも雨が降る。この時期には職場の大学の構内には紫陽花(あじさい)が沢山咲く。それらはいつもボクのこころを癒してくれる。なぜかくも紫陽花は癒し系なのだろうか。ふと考えてみた。きっとボクの記憶には紫陽花が心を癒してくれる経験が多かったのだろう。それだけこの時期には不安なことや落ち込むことが多かったのかもしれない。そもそも雨降りの日が好きではないボクにとっては雨のなかいつも幸せそうに咲いている紫陽花の花はそんなボクのこころを中和してくれたのだろう。今年も同じ気持ちをもって紫陽花を眺めている。雨の中で傘もささずにいつもニコニコ微笑んでいる。紫陽花がきれいな場所は他にもある。そこは今年の大河ドラマの主人公のかたが住んでおられた場所で、こんもりとした山がある場所だ。そのかまぼこのような山の東側斜面には桜の木がたくさんあって、春先もとても見ごたえのある景色であるが、その斜面の一番下の部分に道に沿って紫陽花が数十メートルにわたり植えられている。実にきれいだ。今ふと気が付いたのだが、紫陽花はきっと水のような存在なのだろうと思う。万物を利して争わず、衆人のいとう所にある。紫陽花は目立つ場所にはいない。だいたいが裏道や木の生茂るうっそうとした場所の陰にいる。そういうところでも存在感を示すことが出来るのは実に素晴らしいと思う。やっぱり紫陽花はボクのこころを励ましてくれる。

2021年6月18日

うちの近所にはカラス天国がある。もちろん居酒屋とかカラス料理店の名前ではない。そのまんまカラスのための天国である。天国であるその理由はいたって単純である。カラスにとっての幸せがそこには山のようにあるからである。つまりはご馳走にありつけるということだ。家庭ゴミと言えば収集の曜日が決まっているものだが、うちの近所はそんなルールはまもられてはいない。守られていないということはゴミを出す方法もかなりワイルドである。だから毎朝の出勤どきには自宅のマンションから少し歩いた場所ではカラスが大宴会を催している。ちょっとした幅の道路ではあるがあまり車が通らない住宅地であることもあり、ゴミは極めて存在感がある様式で捨てられている。正確に言えば捨てられていたのであろう(推定)。なぜならボクがそのゴミを目撃する時点ではすでにその原型はみじんも残っていない。ゴミ捨て場(場というよりも山)から道路のど真ん中まで春先の山で発生する雪崩のように飛び出しているのである。ゴミの山の付近はまさに90分食べ放題居酒屋(税込み3000円ぽっきり)の熱気であふれている。酒池肉林という言葉はまさにこのことを言うのだろう。KFCの骨付きチキンに、ビールの空き缶。誰かの晩飯がまるっと大公開である。その大宴会会場を避けるようにして通り過ぎる出勤中の人間たちは大宴会中の10数羽のカラス様ご一行の迷惑にならないように「ちょっと失礼いたします」といった表情でこそこそとわきを歩かせてもらうといった有様である。人間とカラスの力関係がこんなにも逆転している場所は他にはないと思う。しかも空を見上げるとご馳走の残り物を待ちわびている比較的弱いハイエナカラスたちが電線を所狭しと埋め尽くし、さらにはハイエナスズメとハイエナハトも混じっている。アフリカのサバンナに来ている気分になれる。そんな環境のなかに1人の老婆が人間の崇高な尊厳をかけて戦っている。彼女は片手には箒、もう片手にはやぶれていないゴミ袋をもっている。そしてどっちらかった生活ゴミを片付けているわけであるが、カラスにとってみれば大迷惑な行為である。しかしそんな迷惑な人間なのにカラスは怒ったりはしない。黙々と掃除する老婆を横目にしながらただただ獲物をもりもりと食べる。これも何かの共存関係と言えるだろう。宴会も終わるころには道路はいつものように生ごみの匂いを放つ湿った影だけを残して撤収される。ゴミを食うカラスはそれを恵んでくれた人間のことをどう思っているのかわからないが、嫌っているわけではないのだろう。散らかったゴミを跡形もなく食べつくして撤収してくれるならこれほどありがたい生き物もないだろうが、そうもいかない。食べた後に掃除をするカラスは一羽もいない。