八転び七起き

はじめましてKRZです。

2021年5月23日

お寺に行くのは好きだ。物心ついたころからお寺にはご縁があったからだ。祖母はお寺で家事代行のようなお仕事をしていた。うちからチンチン電車に乗って2つ目のところにあるお寺だ。祖母はいつもママちゃりで通っていた(祖母が乗ればババちゃりとなる)。そこには龍のような立派な枝が伸びた松の木がある。墓地に囲まれたとても立派なお寺である。お寺での仕事がすんだ祖母をたまに父が車で迎えに行くときにはボクもよく一緒にいった。後になって知ったのだが、そのお寺の先代の住職さんは現在の住職さんのお母様であり、若くして亡くなったご主人(もちろん住職をされていた)の後を継いで住職になられた。ボクが子供のころはその先代の住職さんはまだ現役で若かったころである。家事代行に行っていた祖母も50代のころのことだ。みんな若かった。そしてボクはいつもそのお寺の本堂に天井からぶら下がっている吊り灯篭をぽかーんと眺めるのが好きだった。見上げるといつまでもみとれている。なぜ吊り灯篭というのはこうも魅力的なのだろう。黄金の吊り灯篭も作られた当初はさぞかしきれいだったことだろうと想像したりもするが子供心にはそんなことは思いもつかなかった。いつしか時間もたってボクは大阪の大学院に行くことになった。そのころはろくに盆正月なく忙しく過ごしていたので実家に帰ってお寺参りできないので代わりに京都の西本願寺によくお参りに行った。祖母が働いていたお寺にとっての総本山がこの西本願寺だからである。牛丼の吉野家にたとえればそれはまさに築地の一号店舗のようなものだ。本店はやっぱりすごい。西本願寺の吊り灯篭は目が飛び出るほどおおきい。初めて見たときは慄いたものだ。畏怖の念とはこういう感じなのだろう。お堂もめちゃめちゃ大きい。奈良の大仏さんがすっぽり入るのではないかと思うくらいである。そこに掲げられていたのが「見真」の文字が書かれた額だった。いろいろとこの額のことは議論があるようだが、ボクは見真という言葉が好きである。